「おお神よ、私は大竹に田中がツッコむのをこの目でしかと見届けた」
このテキストは、科学的な世界観とスピリチュアルな世界観を論理的に統合するひとつの試みです。
「連続性」という観点に注目し、私たちが観察しているものごとを「連続的なもの」とそれ以外のものに分類します。 「連続的なもの」とは物質や思考の属する世界で、テレビの番組のようなものです。
私たちの本質は「テレビを見ている人」であって、 テレビの中と外では別の見方、別の法則を適用すべきではないかという考え方です。
私たちの見るほとんどのものには、連続性があります。 連続性という言葉で私がイメージしているのは、ビリヤードのようなものです。 ビリヤードにいくつか玉を置いて、そのうちのひとつを突いてみると、 突かれた玉が転がり他の玉に衝突してそれを動かします。 キューの動きと力が玉につたわり、それが玉の運動となり、 その玉が別の玉に衝突すると、その玉に力が伝わり運動となります。 このプロセスには連続性があります。 このようにあることが次に起きることの原因となって、さらにその結果がその次の結果の原因となるように、 原因と結果が連鎖的につながっていく一連のものごとをここでは連続性と呼ぶことにします
私たちの思考にも連続性があります。 例えば、この「例えば」という言葉は、その前の一般的な表明とその後に続く具体例をつないでいます。 言葉は常にこのように前後の言葉とのつながりで意味を持ちます。 ですから、言葉で表現される思考は常にその前後の思考と連続しています。
感情にも連続性があります。 例えば、頭をたたかれたとかという外部からの刺激が怒りにつながります。 「突発的な怒り」と言っても無から突然怒りが起こるわけではなく、 それまで蓄積されたストレスが一度に表現されているだけで、 そのストレスの蓄積も含めて考えれば、やはり連続性があります。
連続性に着目すると、外部にある物質の動きと心の中にある感情や思考とがつながっているように見えます。 私たちが観察するほとんどのものごとは、 このように一連の絶え間ないプロセスとして全てがつながって起きています。
さて、世の中にある全てのものはこのように連続性のある一連のプロセスですが、 そうではないものを目にすることもあります。
思考において、「直観」と呼ばれる突然ひらめくアイディアは不連続に見えます。 ニュートンがりんごと月の相似に気がついた瞬間を想像すると、 そこには断絶があるように見えます。 ある時点まではニュートンの頭の中にその考えは存在しないで、 次の瞬間にそのアイディアが存在しています。 そのアイディアが展開し整理されて数学的に定式化されニュートン力学の法則になります。 アイディアが産まれた後の一連の過程は連続的に見えますが、 アイディアが産まれる所だけは火花のような瞬間的なプロセスでその後のプロセスと性質が違うように思えます。
感情においては「愛」が芽生える時が、これに似ているかもしれません。 誰かを好きになる時などは、「愛」は理由なく突然発生します。 ある瞬間には「愛」はなくて、次の瞬間に「愛」があります。 性的な欲望は、原因となる刺激を特定できますが、 「愛」の原因は全くわからないこともあります。
このように心の中には連続性が無いように見えるものがいくつかあります。 そしてこういうものは、突発的に発生し、いつどこでどのように発生するのか予測したり制御したりするのが困難です。 連続的なものと違って、繰り返し観察することでその性質をつきとめることが難しいものです。
もうひとつ世界を観察する時に異質なものの存在に気づきます。 それは「観察者」です。 観察という行為には、「観察するもの」と「観察されるもの」が関与しています。 「観察するもの」は思考ではありません。 思考は観察できます。 感情やその他心の中で起こる全てのものは観察することができます。 ですから、思考や感情の他に、心の中には「観察者」という別のものがあります。 そして、こういう純粋な観察は常に一定です。
ボールが飛んで来て、頭に当たり、頭に来て、「ばかやろう」と言う、この一連のプロセスを全て観察することができます。 観察されるものは、外部にある事象と心の内部で起こる事象に分かれていて、 それぞれが常に変化しています。 しかし、この一連のプロセスを観察する時、 この「観察」という行為の質は一定で、「観察者」も一定です。
さて以上の考察から、私たちが観察する全てのものは次のどれかに分類できます。
さて、この中で「私」はどこにいるのでしょうか? 「私」はどれに含まれるでしょうか?
ボールが頭に当たって痛い思いをして怒っているのは「私」です。 この観点から言えば、私は連続性を持って変化するプロセスの一部です。 「いてえな」と叫ぶ時、私の意思がその行為を実行させているように思えますが、 それは不連続なものではなく、ボールという原因から一連のできごとの連鎖で発生した別の事象です。
ですから、全てがつながった一連のできごとの中で、 特定の領域を仮に「私」と呼んでいるだけで、 それは恣意的な区分のようにも思えます。
このように連続性のあるものの中で特定の部分を「私」と呼ぶだけのことかもしれません。
一方で観察という行為に注目すると、明かに観察している主体が「私」です。 つまり「私」は不変の観察者の側にいるようにも思えます。
さてここで、「不変の観察者」と「不連続なもの」をつなげて考えてみます。 どちらも連続性のある一連のプロセスであるこの世界と異質なものだからです。 「不変の観察者」の「意思」が「不連続なもの」を発生させるという仮説をたててみます。
そうすると、「自由意思」の謎も氷解します。 つまり、意思と呼ばれるものには二種類あることになります。 本来全てがつながった一連のプロセスで、物質のある部分を私の体と呼ぶように、 プロセスの一部分を便宜的に区切って「意思」と呼ぶことにしたものと、 この世界に不連続性をもたらすような本物の「意思」です。
これはテレビの番組を見ている「私」をイメージするとわかりやすいかもしれません。
テレビの番組は、見ている者の意思と関係なく、テレビの中の論理に従って一連のプロセスとして進行します。 テレビの中の論理とは、大竹がボケれば三村がツッコミを入れ、太田のボケには田中が突っ込むという約束ごとです。 これが物理法則と呼ばれるものです。 そして、我々が目にするのは通常、この約束に従ったものです。
しかし、我々はチャンネルを変えることで違う現実を見ることもできます。 大竹がボケた瞬間にチャンネルを変えたら、たまたまそこに田中がツッコミを入れるかもしれません。 不連続性をともなう事象、すなわち、愛とか直観とかはこのように発生するものなのです。 これが奇跡です。
あなたは感動して「おお神よ、私は大竹に田中がツッコむのをこの目でしかと見届けた」と言うかもしれません。 しかし、これは番組の中で起きたことではありません。 あなた自身にとっては確かな経験ですが、 それは他の人には見ることができず、 証明したり検証したりできないことです。
この仮説を整理すると次のようになります。
この仮説を、ザッピング仮説=Z仮説と呼ぶことにします。(ザッピングとは、チャンネルをあちこち切りかえながらテレビを見ること)
なお、Z仮説では、次のような点はあえて明確にしていません。
Z仮説では、我々はテレビ番組に深く同一化しているため、 チャンネルを切り換える能力を十分に発揮できないとしています。 実は、このメタファーは多くの宗教的、スピリチュアルなメッセージと一致しています。
宗教的、スピリチュアルなメッセージの多くは、「目覚めた」人からのメッセージです。 彼らは「あなたたちの見ている現実は本当の現実ではない」ということを言います。 Z仮説の枠組みでこのようなメッセージの意味が明確になります。
特に、この種のメッセージを発する人の困難が理解できます。
我々の目は通常テレビに釘付けになっていますから、 「あなたたちはテレビを見ているんだ」というメッセージもテレビを通して、 ひとつの番組として流すしかありません。
情報元から見ると、テレビ以外の直接的なコミュニケーションの方が直接的で簡単だと思いますが、 我々がテレビ以外の媒体に開かれていないので、 耳元で大声を出しても我々にはその声が聞こえないのです。
そこで彼らは、例えば、ひとりの男が部屋でテレビを見ている様子を、番組としてテレビで流すのです。
我々はそのメッセージを、ひとつのドラマの情景として、あくまでテレビの中のできごととして理解してしまうかもしれません。 そして、ドラマとしてその演出や演技を評価するかもしれません。 どのような意図が含まれていようと、番組は番組ですから、そのような論評も可能です。
しかし、本来、この番組は「あなたはテレビを見ている、チャンネルを変えることもできるしテレビから離れることもできる」というメッセージのためのものです。 我々のテレビの外での行動を変化させることに役立てれば意味があるし、それができなければ意味をなしません。
また、テレビを見ているのが男でも女でも番組の意図は同じです。 また、人物がテレビを見てから外に出ても、外から部屋に入ってきてテレビを見ても、 その違いに優劣はありません。
たくさんの宗教やメッセージがありますが、 本質的にその目的は同じですから、番組の中を見る視点で優劣や真偽を比較することは無意味です。
もしテレビを見る人が複数いる場合にどうなるかという問題が起こります。 チャンネルの奪いあいのような事態が発生するのではないか、ということです。
まず、観察されるものに干渉しない人、すなわちチャンネルを変えない人は複数いても問題がありません。 この場合は、たくさんの人がひとつのテレビを共有して同じ番組を見ているとしても何も矛盾は起きません。
我々の行動のある部分は自動的なものです。 ものと同じような連続性、法則に従った動きをしています。 「チーズバーガー下さい」「ごいっしょにポテトはいかがですか」という対話のように、 マニュアルに即した会話のようなケースです。 このように明確にマニュアルを文書化できるようなケースは稀ですが、 複雑に見えても我々の行動はある刺激に対する反応として、 ルールに従っているケースがあります。
そのように予測可能なルールの中で動いている限り、 複数の主体が同じテレビを共有して、同じ番組を観測していながら、 それぞれ番組の中の別の人物に同一化しているような状況は起こり得ます。
問題は、複数の主体が別々の意思を発揮して、別のチャンネルに切り替えようとした場合です。
例えば、私と大槻教授が科学的に厳密なスプーン曲げの実験を行います。 私はスプーンが曲る現実を選択し、大槻教授はスプーンの曲がらない現実を選択します。 特定のチャンネルの中で起こることは、どちらかひとつであって同時に二つの結果が起こることはあり得ませんが、 別々のチャンネルが同じドラマの別々の結末を放送することは可能です。 大槻教授はチャンネルを変えず、私はチャンネルを変えたのです。
大槻教授はあるチャンネルを見ながら「そらみろ、超能力は存在しない」と言い、 私は別のチャンネルを見て「そらみろ、超能力は存在したじゃないか」と言っている。 つまり、二人は別々の違った現実を経験しているということは論理的に起こり得ます。 我々は常時、継続的に同一の現実を共有しているわけでなく、 さまざまな現実をそれぞれの意思に従って別々に経験しているのかもしれません。
しかし、この考え方にはひとつ問題があります。 私と大槻教授が別々の現実を選択した時に、相手方の選択した現実にも私と大槻教授がいることです。 私の世界にはスプーンが曲がったのを見て超能力の存在を信じてオカルト屋さんになった大槻教授がいて、 大槻教授の世界にはスプーンが曲がらなかったので超能力の存在を否定する唯物論者に転向した私がいるかもしれません。
その唯物論者の私は私なのでしょうか? オカルト屋の大槻教授は大槻教授なのでしょうか?
私は、両方の私も同等であって、見る私はメインのウィンドウでひとつの番組(の中の私)を見て、 サブウィンドウで別の番組(の中の別の私)を見ているのではないかと考えています。 つまり、ひとつの意識は同時に複数の現実を経験しているのではないかと思っています。 もちろん別の解釈も成り立ちます。
いずれにせよ、このようにテレビの外のことを考えるには、 テレビの中のことを考えるのと別の論理、別の枠組みが必要になります。 特に複数の意識が物質=機械でなく意識としてふるまう場合には、 特殊な出会いが発生します。 あるいは「観察されるもの」同士の相互作用には別の法則が必要だと言えます。
宗教的、霊的な書物はこのような意識と意識の関係について述べているのかもしれません。
人と人が出逢うことには、どのような意味があるのでしょうか?
もし、人と人が自動的なプロセスの中でなく、部分的にでも自分の意思を発揮したザッピングの結果として、 同じ番組を見る、つまり同じ現実を共有するとしたら、 そこには両者のテレビの外での意思が関係しているかもしれません。
つまり、二人はテレビの外で何らかの約束をした結果、 特定の時点で同じ番組を同時に見ているのです。
私はそのように考えています。
これには根拠はありませんが、 出会いの意味は番組の中の論理(思考や言葉の論理)には説明できないものがあるのは、 Z仮説に従う限り、論理的に必然のような気がします。
Z仮説は、基本的には多くの本に述べられていることの焼き直しですが、 「観察者」という概念と「非連続性」という概念をリンクしたことだけは私のオリジナルのアイディアです。
私には神秘体験等の非日常的な経験はありません。 ごく普通の生活の中で、少しだけたくさん本を読み、ちょっとだけ突飛なことをあれこれ考えた結果で書いています。
ですから、これはスピリチャルな要素を含むメッセージ=テレビから離れた意識からのメッセージではありません。
Z仮説の参考になったのは、宗教、精神世界、心理学等についての多くの本です。 ただし、その多くについて私の理解は部分的なものに留まっていますので、 個別のソースには言及しません。
それらの素晴しい本とZ仮説が同一視され、 Z仮説のレベルでソースを理解されることを、私は避けたいからです。
ペンローズという物理学者が、「皇帝の新しい心」という本で、意識の性質と量子力学について興味深い考察をしています。 私は半分も理解できていませんが、 彼は「直観」と「意識」に特別な意味を置いているようです。
「もし、精神の中で起こることが全て脳の中で起こり、脳が単なる物質だったら「直観」ということは起こり得ない」というようなことを言っています。 ただし、「単なる物質」というのは彼の言葉で正確に言えば「古典力学的作用のみのプロセス」だったらということです。
Z仮説が「観察者」と「不連続性」に注目しているのは、第一にはペンローズの影響だと思います。
ただし、ペンローズは、単なる物質でないものを記述する理論=新しい量子力学と予測していて、あくまで物理学の発展によってこの問題にアプローチできるという立場を取っています。
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