士農工商の本質は、身分が固定されていることではなくて、選択肢が有限であることだ。13歳のハローワークは、4つよりはるかに多くの職業を網羅してはいるけど、職業の選択肢が有限であるという意味では、平成版士農工商的メッセージに見えてしまう。労作ではあると思うけど、そこに限界を感じる。
坂本竜馬は脱藩してからも、藩に残った人と断絶したわけではなくて、情報交換したり共同作業したりしている。脱藩とは、藩を脱することではなく、士農工商的身分制度の外に出て、自分の任務を新しい職種として創造するという意思表示だったのではないか。
これからアグレッシブな企業に入社しようとすると「あなたはこの会社でどんな職種につきたいですか?」ではなく「あなたはこの会社でどんな職種を創造しようとしていますか?」と聞かれるだろう。士農工商を細分化した枠のひとつをうまく選択できる人ではなく、その外に自分の仕事をひとつの職種として新設できる人材が求められる職場が増えるだろう。
既存の職種につく場合でも、やはりその職種を新しく創造することでしか職責を全うできないケースも増える。教師なんかが典型的にそうだろう。これから子供を教え導くことほど、チャレンジングでリスクの大きいことはない。それはヘタなベンチャー企業に就職するよりよほどやりがいのある仕事だ。既に存在する枠に自分を押し込むことで成果を生むとは思えない。
だから、脱藩的ハローワーク、脱士農工商的ハローワークが必要なのだ。
私は、解毒剤となることを志向して文章を書くことがある。そして、解毒剤というものは、ほとんどの場合、毒を持っているものだ。私の書くものの中にも、カテゴリーエラーやトートロジーなどのかなり強烈な毒が含まれていると思う。半分は意識しているつもりだけど、外からしか見えないこともたくさんあるから、「ここにはこのような毒がある」と指摘してもらえるのは、ありがたいことだ。
しかし、解毒剤に対して「無毒になれ」と言うのは「無力になれ」というのとほとんど等しい。それはナンセンスな指摘だと思う。
もちろん、「何の毒に対する処方なのか」ということは明確にする必要がある。そこをきちんと把握できないまま解毒剤を処方しようとするのは、危険なことだ。私としては、これまで、以下のようにさまざまな形で、時代に蔓延する毒を描写してきた。
ここで問題としている「毒」は簡単には言語化できないものだと私は思う。ただ、漠然とそういうものがあるという危機感は持っていて、それは多くの読者と共有しているような気がする。
だから、この構図全体を見据えて批判していただければ、一番建設的だと思う。
「毒などない。すでに把握された問題がいくつかあるだけで、解毒剤というリスクは不要である」と言われたら、私は毒の方をもっと言語化すべきだし、「毒はあっても解毒剤は原理的に使用すべきでないものだ」と言われたら、私は毒と共存する方法を考えるべきだし、「essaにはまだまだ毒が足らないので解毒剤として無効である」と言われたら、もっと強力な解毒剤になろうとするだろう。
もちろん、無毒な解毒剤を持っている人がいたら、ぜひそれを処方してほしい。
世の中の変化を無条件で悪とみなす人は、現在存在している悪に鈍感である。だから、発生する問題と対となって既に存在する問題を指摘する語彙が必要だ。
例えば「デジタルデバイド」に対して、「人脈デバイド」を考える。
ネットが政治に関与したらデジタルデバイドが問題になる。ネットサーフィンがうまい人が有利になり、そうでない人が意思決定から排除される。しかし、ネットが政治に関与しなかったら人脈デバイドという問題が残る。人脈サーフィンがうまい人が有利になり、そうでない人が意思決定から排除される。
ネットサーフィンも人脈サーフィンも、ある程度の学習と訓練が必要だ。8割くらいの人は、訓練すれば普通に使えるようになる。1割くらいとても上手な人がいて、1割くらいはどうやってもうまくできない人がいる。
だから、「デジタルデバイド」と「人脈デバイド」のどちらが不公正の度合いが強いか、それが問題なのだ。あるいは、「ネットサーフィン」の頂点に立つ人と「人脈サーフィン」の頂点に立つ人の、どちらが我々の代弁者として適切なのか、それが問題なのだ。
それは、常に比較級の問題であり、「デジタルデバイド」が存在することだけが、変化を留める根拠となってはおかしい。
イノベーションとは、昔の自分にうまく説明できないことだ。2ちゃんねるやブログがその典型だ。最近それをやりはじめた人は当然そうだと思うが、パソコン通信とかやってた人でも、もし説明しようとしたら、過去の経験が邪魔になって、過去の自分はとてもおかしなものを想像してしまうだろう。
2ちゃんねるに批判的な人は、過去の自分に「なぜそれがそんなに問題なのか、危険なのか」を理解させることに苦労するだろう。「そんな掲示板があったら問題だと思うけど、そんなことはどうでもいいことだろう」と過去の自分が言うだろう。
おそらく、過去の自分は現在の自分と同じくらいの理解力と、ほぼ似たような好みを持っていると思うけど、誰にとっても、ブログや2ちゃんねるについて、現在の自分が持っているイメージを、過去の自分に与えることは困難なことだろう。
それは、イノベーションというものは、「体験」を与えるからである。現在の自分と過去の自分は、知識も理解力も想像力も同じだ。そのイノベーションにまつわる「体験」だけが違っていて、そのことが、二人を決定的に分ける。
そのような断絶を作るものがイノベーションというものである。
イノベーションの為には、「やっていいこと」が列挙されているルールは適さない。「やってはいけないこと」だけが列挙されていて、「それ以外は何でもあり」になっていないといけない。「やっていいこと」が列挙されている場合は、イノベーションのためにルールの新設が必要になり、そのルールが必要になる理由は、過去の自分に説明できないからだ。
そして未来から見たら、我々は誰もが「過去の自分」である。
本文には書くことがないので、ついでに今日の勘違いにリンク。
(追記)
日本の自販機から資本主義の本質を考えるも関連しているかも。
見田宗介氏が八月一六日の『朝日新聞』で、日本は経済水準が高いのに「とても幸福だ」と答える人が極端に少ないと語ります。アマルティア・センの言葉だとケイパビリティが低い。すなわち多様な仕事、多様な趣味、多様な家族、多様な性を、自由に選べそうで、実は選べない。制度的に選べないのに加え、主体の能力が低いので選べない。鬱屈と嫉妬が拡がるばかりです。
この現状認識には100%同意する。
だから、民主党が示すべきは「都市型リベラル」の政党アイデンティティです。「小さな政府」が「弱者切り捨て」を伴ってはいけないと主張し、「都市型弱者」である非正規雇用者やシングルマザーや障害者の支援を徹底的に訴える。「フリーターがフリーターのままで幸せになれる社会」をアピールすればいいのです。
「小泉さん、壊してくれてありがとう。壊れた後は民主党が作ります」で行くべきじゃありませんか。
「都市型保守」のネガティビティに「都市型リベラル」のポジティビティを対置する。「不安」に「幸せ」を、「不信」に「信頼」を対置する。本当にタフでカッコイイのはどちらか。言うまでもありません。
これらのビジョンもいいと思う。
しかし、なぜ民主党がその道を選択しないか/できないかの分析がない。そこを分析して、岡田さんがそれを乗り越える手段として何を持っているか示さないと、小泉さんが駄目な理由にはならないのではないだろうか。
字数に制約があるなら、前半にある耳タコの旧保守批判を削って、それを出さないと。
「宮台真司が言ったから岡田さんはその道を行くだろう」と言ってるだけの話になってないか?こんなわかりやすい勝ち方があるのに、それが民主党の「とるべき道」であって「とっている道」ではないのは、何か理由があるんじゃないの?
書いている人:
essa