試してみましたが、これはなかなか使い勝手がよさそうです。私はコメントもほとんど入れてないし、タグを使う気はありませんでしたが、これがあれば使ってもいいかな、ついでにコメントも少し入れるようにしようかな、と思っています。
はてなブックマークは、タグの入力欄がなくて、コメントの先頭に[hetena]みたいな形式で入力するという、変則的なインターフェースを採用しました。これは、ブックマークを登録する一連の流れが、スムーズに進むような配慮だと思いますが、このスクリプトで、それが一段と加速するような感じです。
タグを入力する時には、「過去にどんなタグを入れたっけ?」と考えてしまう時間があります。このスクリプトを使うと、ちょうどその一瞬に、過去のタグ一覧が(ある程度絞りこまれて)表示され、そこから選択できます。だから、その考える時間によって流れが切断されることがありません。
作業時間の削減という点では効果はほとんど無いと思いますが、空白の時間で作業(の中の意識の流れ)が切断されるかどうか、そういうことを意識することは、「体験のためのソフト」として、重要なキーポイントだと思います。
それと私は、Going My Way: Firefoxのbookmarkにkeywordを設定して簡単にアクセスするのテクニックを使って
http://b.hatena.ne.jp/essa/?word=%s&cname=
というアドレスをmybmというキーワードつきで登録しています(はてなブックマーク全体の検索は別にbmとして登録)。Firefoxのアドレスバー(普通はURLを打つ所)に、例えば
mybm Ruby
と打つと、自分のブックマークした記事から、Rubyを含む記事を表示してくれます。
ワンタッチで登録して、ワンタッチで検索し関連記事を探しながら、集団知を利用する、という一連の作業全体が、ひとつの「体験」としての楽しさを持っているような気がします。
あるいは、「はてなは『体験』の品質を向上させることで、集団知を効果的に発動させている」と言うべきでしょうか。
Skills in creating wiki pages と言うのは、「WikiNameを入力してクリックするスキル」ではないでしょうね。それはわかるけど、「ではどういうスキルなんだ?」と聞かれるとちょっと考えこんでしまう。
どういう人材を求めているのか雰囲気はわかるような気がするけど、そこにWikiという言葉がこういうふうに使われるのは意外でした。
そう言えば、Wikiと(ソーシャルブックマークの)タグは似ている。どちらも、集団知を働かせる為に意図的にシンプルなアーキテクチャーを採用したプラットフォームであり、それから、階層構造が定着した分野で階層構造を否定する方向に進化している。
馬鹿なことを一生懸命やるその姿勢がいい。てゆうか、もちろん技術的に重要なテーマがたくさん含まれているんだろうけど、なんとなくそれが想像できても「馬鹿なことを一生懸命やっているように」見えてしまうそういうテーマを選択するそのセンスが好き。mpg動画必見。
ジャンケン十三奥義まとめとか、コメントも面白い。
どんなに虐待されても、それは「自分が悪いから」と子供は考える。子供は親に愛されないと生きていけないことを本能的に知っている。だから親を憎むことができない。親の愛を請いつづける。なので親から虐待を受けても自分から親を告発することはめったにない。なので幼児虐待は潜在化してしまう。
これ重要。
我々が想像する全ての「虐待」「暴力」は、外部から何かが自分の領域に侵入することだ。その「自分の領域」は幼児期に親によって自分が保護された体験から作られている。
幼児虐待は、それと全く別の体験になってしまう。それは「自分の領域」自体を奪われてしまう体験であり、暴力を「侵入」として体験することができる大人が受ける暴力とは別のものだ。
だから、簡単に虐待されている子供の気持ちがわかると思ってはいけない。
私もリンクした広告のことだが、これは確かに当事者にとっては切実な話で、うーむと考えさせられてしまった。
まず、ここだけはちょっと違うと思う。
虐待を受けている子どもが、こういうふうに穏やかにニコニコしている、つうのか。/見てわからんか。/バカか、おまえは。
親が虐待されている子供に求めたらその子は「ニコニコ」せざるを得ない可能性もある。そういう点に注意を促すことは、重要だと思う。
ただ、もっと重要なのは下記のポイントで、これは同感。
ジロジロ見る人、聞こえよがしにつぶやく人、それぞれに「善意」の持ち主ではあるのだろう。/先の広告はその「善意」を促そうという意図のものだろう。/しかし、実は「善意」とは「公共」の場で発動する(べき)ものではないのではないか。
「公共」の場で発動する「善意」は無責任なもので、人を傷つけることはあっても、人を救うことはできない。たまにできたとしても、まぐれあたりに近いのではないか。
問題の広告がそういう「善意」を求めているようには私には見えないけど、こういう「善意」が注意を要するものであるということには同意する。
トーアやWinnyのように、traceabilityを切るシステムは、ほぼできつつある。完全に確立した技術とは言えないが、理論的には、もうひと押しで完成する段階に来ていると思う。
ネットの世界では理論と実装の違いは大きいが、それでも、いざ作るとなったら、例えばGoogleなんかにやらせれば、3ヶ月で作っちゃうんじゃないか。
同時に、完璧なtraceabilityへのニーズも強くある。IPV6ベースで考えれば、根本的な未解決の難題はないと思う。実際に普及させようとしたら具体的な細かい課題はたくさん出て来るだろうが、これも、基本的には「できつつある」と言ってよい段階だろう。
上でリンクした思考錯誤さんの記事の後半は、traceabilityの社会的な評価に関することだが、技術的には現在、重大な岐路に立っており、これは緊急で重要な課題だと思う。「意見があるなら今のうちにどうぞ」ということだ。
私は、traceabilityを切るシステムが公共性には不可欠だと思うが、逆にtraceabilityを確保することが必要だと考える人もいるだろう。どちらにせよ、プログラマーやベンチャー企業が自分の回りだけ見て決めていいことではない。充分に議論をして、社会的な合意の元で意識的に選択すべき課題だ。
普通に考えると、両者は両立しない。トーアのように、traceabilityを切るシステムがあれば、それ以外に完璧なtraceabilityがあっても、そこを通すことで無効化できるわけだから、そのような部分ネットワークを持つネットワークは、全体としてはtraceabilityがないネットワークになる。
それでは、ある制限の元でトーアを使えばいいのだろうか。例えば、人権問題に関する告発等の特定の目的に限り、トーアを許可するとか。そういうやり方では、トーアの出口と入口を見張ることで、容易にそういう活動をしている人を割り出すことができてしまう。この場合は、全体としては完璧なtraceabilityが確保されたネットワークである。
普通に考えると、両立は無理なんだけど、ソフトの世界は天才ハッカーが無理難題を解決した事例であふれているので、うっかり「両立は無理」と言いきる気にはなれない。
これは、技術的な詳細を明確にして議論しないと結論が出ない問題だが、技術的な前提を明確にすることで議論から技術者以外を排除して、技術者が勝手に決めていい問題ではない。インターネットと公共哲学で書いた、「HowとWhatの不可分性」という問題が含まれているのだろう。
もちろん、traceabilityと言ってもいろんな側面、いろんな応用があるので、それを一括で論じるのはおおざっぱすぎるのかもしれない。が、結局、IPパケットのtraceabilityに集約されるのであれば、全部ひっくるめて一つの問題だと思う。答えは、YES/NOの二者択一で中間はない。
人類にはtraceabilityが必要なのか不要なのか。とりあえず、はやくスペックくれよ〜チンチンと言っておく。
書いている人:
essa