また、やっちゃいました。泉水忍じゃなくて仙水忍だったんですね。言いわけになりますが、Google 検索: 幽々白書 泉水で結構ヒットするんですよ。Googleに頼りすぎて原典にあたらないのはダメってことですね。でも、なんで誰もツッコんでくれなかったんだろう。
私は、このキャラ好きなんですよ。納谷六朗さんを応援するページなんてあって、その管理人さんの自己紹介で、仙水忍における納谷さんの「演技」について書かれています。これにはほぼ同感。
これだから、真面目な奴は、極端から極端へ走りやがる
私も仙水に似てるかもしれません。そう言えば、このBLOGはいろんなネタをいろんなスタイルで書きますが、その切り替えは多彩というより多重人格的ですね。ツッコミが少ないのもそういう不気味さがあるのかもしれません。ヘタなことをツッコむと突然キレて「このクソガキがぁぁぁ」と暴れ出しそうな雰囲気がただよっているのでしょうか。まあ、それは当たってなくもないような気が自分でもします。そういう意味では、ここは心理的ツッコミビリティが非常に低い。
そんなに昔のことではないですが、仙水忍さんの時代よりこういうタイプには住みやすい時代と言えるのかもしれません。仙水さんも霊界探偵でなくブロガーになって巨悪と対峙すればよかったのに。
山拓の選挙区の3分の2の地域の、全ての住宅に怪文書(週刊誌コピー&文字変えたもの)を投函した者が居ることを報道したのは日テレだけ?
「選挙区の3分の2の地域の、全ての住宅」とは相当な動員力ですね。これを動員した組織は、どうしても山崎さんに当選してほしくなかったんですね。まあ、格好のネタを提供してしまった山崎さん本人も悪いんですが。
他の局の報道の有無は確認してませんが、副総裁の落選はビッグニュースですからこれくらいの大規模な怪文書は取りあげる価値があると思います。これを動員した組織から止められてるんでしょうか。
連立政権内の力学がどう変わるのか注目です。あまり関係ないですが、いちおうヤマタク先生エネルギッシュリンク。それから、もっと関係ないけど昔作ったシグネチャ。
ナカは中央区の中、シマはヤマドリじゃない方のシマです。タクは山崎幹事長と同じ。知らない?じゃ、これだけは言いたくなかったけどキムタクのタク。
本当にこれで何件かはメール出しましたが、さすがに恥ずかしくてやめました。どうせちょっと調べりゃわかることですが、もし私の本名知りたい人がいたらこれがヒント(っていうレベルじゃないけど)です。
梅田さんのアマゾンの実験に需要サイドからのイノベーションを考えるで、私の書いた書籍検索とオープンコースウエアのない言語は滅びるをリンクしていただきました。もちろん、こんな素晴しいBLOGからリンクされたら、どんなくだらないネタでもうれしいですが、この記事は自分では今年一番いいことを言ってると思っていたのにあまり話題にされてなかった気がするので、特にうれしいです。というか、(生意気で自慢気な言い方ですが)こういう所を見逃さないとはさすが梅田さんだと思います。
そして、その記事も素晴しい。これについて考えてみました。
梅田さんがこの記事で強調しているのは、インターネットの普及により「コンテンツの価値」そのものより「コンテンツを活用することで創造される別の価値」が大きくなる、そこから発生する「需要サイドからのイノベーション」が重要になるということです。自社の内部に囲いこんで価値を創造するIBMやHPより、グーグル、アマゾン、eBayのような価値創造のモトネタを提供する企業に成長の可能性があるということだと思います。
これを私なりに抽象的に考えると、創造のプロセスの中の知の流通に歴史的な変化が生じているということになります。
昔、中国では科挙と言って四書五経という特定の書物を勉強したかどうかをチェックする試験があって、これにパスした人が知的エリートになったわけです。そういう人の間では、そこに出てくる概念は全て共有されていて、四書五経は考えるためのベースでありコミュニケーションのツールであった。例えば「あのダメ社長は森だけど、うちには小泉がいないねえ」と言えば、「森」や「小泉」という言葉は固有名詞でなくて、特定の概念を表わす一般名詞として使われているわけです。四書五経にはこういう固有名詞がノウハウや教訓とともにいっぱい詰まっていて、うまく使えば、考えるにも話すにも効率的なわけです。その基盤を共有してない人は、どれだけ優秀であっても組織の中で仕事ができない。
こういうのが教養と呼ばれるもので、もちろん、その中身はどんどん変わり膨らみ多様化していったわけですが、一定の固定的な体系化された知識を共有することが、組織の構成員が一定の同じ知識を共有することが必須であるという常識は変化していませんでした。
「科挙」の試験項目は変わったけど、知的な創造は「科挙」に通った人を囲いこんで行なうものだという常識は同じだったわけです。
研究開発費を三社で比べて、デルが圧倒的に少ないことを論拠に、フィオリーナはデルのことを「偉大な会社だが、芸が一つしかないポニー(馬)」だと言う。イノベーション可能性は研究開発費をたくさん投じているIBMやHPの側にあるという論理。
囲いこんだ中にお金を突っこめば価値が出て来るというこの考え方は、この常識から来ています。ここが変化しているわけです。
現代の四書五経はネットそのものです。いかなる意味でも体系化され得ない、ダイナミックな知の創造のためのソースが存在するのです。本質的な「教養」の終焉だと思います。
例えば、「私は仙水に似ている」とか「私は張良になりたい」とか「私はクリステンセンを尊敬する」とか言った時に、全ての人がその全ての固有名詞の意味を知っていることは期待できない。しかし、全ての単語にGoogleの検索へのリンクをはって、その時点で最低限の意味を共有することはできます。
囲いこまれた知的エリートが教養を共有することで生じた、生産性の向上、価値の創造というのは確かにあったと思います。それが機能しなくなってきて、その代わりに、ネット+αが四書五経の代わりとなって、それをベースに新しい形で価値が生まれつつある。
もちろん、ネット単独ではその教養の代わりとしての機能は果たせない。何かが不足しています。アマゾンやGoogleはその不足の+αの部分を補う企業なのだと思います。でも、まだまだ+αの部分は不足している。これから続々その部分をサービスする企業が生まれてくるでしょう。それが「需要サイドからのイノベーション」であり、そこにビジネス・チャンスがあるのです。
梅田さんの昨日のこの記事も非常に重要なものだと思いますが、プログラム以外で共同作業することの何が革新的かを考えた時、単に掲示板やメーリングリストで議論することではなくて、「教養を共有しない人たちの協同作業」と位置づけると、その本質が見えてくると思います。
知識=コンテンツがあまりにも多様化して、量が増えたことで、みんながバラバラに自分の世界に閉じこもってしまう危険性があります。東裕紀さんが「データベース的」と呼ぶ、一種の頽廃に陥いる可能性もあって、それはひとつの危機でもあるわけですが、「オープンソース的コラボレーション」というさまざまな動きの中には、この危機を乗りこえる力が芽生えているような気がします。
それが「オープンソース」という名前のもうひとつのサブカルチャーにならない為には、ある種の基盤を欠いても機能するものを持っていなくてはなりません。そうでないと、これからより極端になる情報の拡散の中で、解体してしまうでしょう。
梅田さんの記事ではその核を「結果だけでなく過程を共有する」ことに求めていて、私はそれを「教養に代わるもの」と呼びます。おそらくどちらもひとつのヒントにはなっても、懐疑的な人に対しては充分な説得力を持たないし、何かが欠けている。
プログラムは「オープンソース的なもの」の中ではある意味特殊なものです。ソース(リポジトリ)という物理的な基盤があるので、その「何か」を欠いてもこのプロセスが一応機能するのです。非常にラッキーなものであって、だからこそ最初に広まったのでしょう。これに相当する基盤が無ければ、「オープンソース的コラボレーション」は掲示板でみんながワーワー騒いでいるだけのものになってしまうでしょう。
そこには足りないものがあって、我々はまだそれをきちっと概念にできないのですが、その何かは確かに生まれつつあると私は思います。
なお、私が前に書いていたページでは、「オープンソース」という言葉を全部索引にしてあります。ここをたどると(一部ノイズもありますが)、これに関する断片的な思考のあとが見えると思います。その中で言及している「プリウスのソースコードを公開せよ!」という記事はリンク切れになっていますが、こちらに残っています。
書いている人:
essa