誰に、何を、伝えたいのか。何が、今一番いいものだと思っているのか。それが今の雑誌にはあるだろうか。すでに評価の確定したものを載せ、いいんじゃないのと人事のように言っている、そんな雑誌が多いんじゃないか。/「売れる雑誌」はない。いい雑誌が売れるのだ。そう思いたい。
俺も雑誌が好きなんだけど、最近、本当に買いたい雑誌が少ない。どの雑誌にも、ここに書いてあるようなつまらなさがあふれていると思う。そして、それは雑誌だけの話ではない。
「売れる××」って他人に評価される××であって、自分が「いい」と思う××ではない。でも、金を払うのは常に「自分」であって、「他人」という人が金を出して物を買ってくれることはあり得ない。そのような消費者の「自分」は、作り手の「自分」と絶対につながってないと誰が決めたのだろうか。
バブルの頃には「他人」が金を出して、「他人」の欲しいものを買ってくれる市場が確かにあったのだが、主体が「自分」でないのは離人症という病気であって、やはり病気の人を騙して成り立つ商売は、長続きする商売ではなかったんだね。
甲野善紀の随感録 9月2日 その2に、末績選手の銅メダルの関係で甲野氏に取材が来ることへの不満が書かれている。末績選手の独特の走法の元ネタ(のひとつ)に甲野氏の理論があるのは確かだが、直接教えたわけではないのに、功労者扱いされることが不満のようだ。そういう事実を確認しないで取材してくるマスコミに対するいらだちもあるみたいである。
こういう時に、直接教えた師匠であっても「いや私は何もしてないんです。本人の頑張りです」などと謙遜するのが一種の作法になっていて、いくら甲野氏が末績選手とのつながりを否定しても、単にその作法として受け取られてしまうことにも、問題があるのだろう。そういう空虚な作法がしみついたマスコミと、意味のない作法を本能的に受けつけない甲野氏のくい違いは大きい。
だが、もう一歩踏みこんで見ると、この問題には甲野氏の理論の中核と関連する重要なポイントが含まれている。直接指導しているサッカー選手だったらどうかと自問して、次のように言っている。
それでもそのアイディアをサッカー場で実現するのは本人であって私ではないから「私が教えた」という表現はあまり好きではない。
よいアイディアは常に動的なもので、静的な概念にはおさまらない。そして、社会的に認知される「人格」という概念はあまりにも静的すぎるのだ。「私が教えた」と言った瞬間に、「教えたもの」が静的な閉じた概念になってしまうのが、いやなのだと思う。
動的なプロセスは教えることはできない。プロセスに巻きこむことしかできない。そういうことを扱う人は、みな言い方に苦労している。Linuxは製品ではないと言っている Ian Murdock もそうかもしれない。
2:6:2の法則やそこから派生した個性の話について、mittyさんの所と神保町日記!(2003-08-28)に興味深い考察があります。
さらに、mittyさんが紹介されていた「出世」のメカニズム―「ジフ構造」で読む競争社会のレビューには次のような鋭いひとことが。
ちょっとだけ出た杭を「出すぎた杭」に育て上げることが自己革新型組織にとっては重要なことです。
ぴろぴろ日記さんからも、何度かこの問題にコメントをいただいてますが、どれも私の言いたいことをしっかりつかまえた上で、重要な点をフォローしてもらってて、私はとてもうれしかったです。
MOON & FREEDOMCAT DIARY フルスロットルさんにもコメントをいただいたと思うのですが、残念ながらもう流れてしまっています。残念ではあるけど、消えてしまう日記というのも面白いですね。
余談ですが、jounoさんのコメントのとおり、ぴろぴろ日記さんがアンテナで捕捉できないのが不便である、ということには私も全く同意なのですが、過去ログがないとかアンテナでキャッチできないとか、不便な所も含めていろいろな日記があることが面白いと、一方で私は思うのです。
気になるので、もう一度通読した。疑問点が氷解した。
最初に読んで感じた疑問点は次の二つ。
構成がアンバランスとは、前半は時系列にそって詳しく体験が書かれているが、後半に行くにつれて体験談が少なくなって教訓めいた話が増えてくる。神戸の児童殺傷事件の犯人の手記などがかなり長く引用されていて、未成年の凶悪犯罪に対するコメントがかなりの分量で書かれている。
個々のパーツはどれも納得できるのだが、流れが読みきれなかった。あるいは、何かが解決したことはわかるのだが、何がどう解決したのかが非常にあいまいであった。
二度読んでみて、そこがわかって同時にタイトルの意味もわかった。
この本には、佐藤氏の視点の移行が表現されているのだ。この本は最初から最後まで全て一人称で、しかも威勢のいいオバサンの一人称で統一されている。そこは統一されているのだが、後半に行くにつれて、佐藤氏は、少しづつその一人称を観察する視点を獲得していったのだ。
「私」を観察する「私」が、観察される「私」と同じであっては意味がない。それは、元の「私」が分裂しただけで、新な視点とは言えない。「私」を観察する「私」は別の存在である。おそらく、その観察する「私」は言葉をしゃべれない。しゃべった瞬間に観察される「私」の一部になってしまうからだ。観察する「私」の言葉を直接文章に書くことはできない。
また、観察する「私」が観察される「私」に干渉したら、干渉する「私」が干渉される「私」の一部になってしまう。観察する「私」は観察される「私」に何も変化を与えることなく観察しなくてはいけない。「観察」という言葉もやや不適切なのかもしれない。
そのような観察する「私」が遺言として残したのが、この本である。観察される「私」は、主観的で感情的なオバサンのまま「私」の体験し思ったことをそのまま書く。観察する「私」は、一切口をはさまずただ見ている。そのような観察する「私」のめざめる過程がそのまま書かれている。
そのような「私」がめざめることが、本当の意味で奇跡でありオカルト(秘儀)なのである。
ってことは、90km/hをかなり上回るスピードを前提にスケジュール組まれてたわけだ。というか、三時間という具体的な数字を出せるのはどこを何キロで走ってるか詳細に把握してるってことか。とにかく業界全体が違法運転を前提にシステム化されていた証拠(ソースは朝の日テレ辛抱さん)。
こういうのは放置してドン・キホーテ、医薬品の無償提供開始 TV電話を利用 みたいのは「違法です」と文句言うわけですね。
最初の発表には名前がなくて、5日後に若人あきら、改め我修院達也がフジ月9で連ドラ初出演というニュースが別に出るのは不自然な気がする。
逆にフジがこの話題に便乗して番組の宣伝をしかけたという解釈も成り立つけど、月9の主たる視聴者層が週間新潮の報道をどれくらい目にしてるか考えると、やはり無理筋か。
お互いに好きなことを信じようや、それがリベラルな態度だろ、というひとは、じつは、自分の真理に懐疑を抱いていないのです。ここには裏返しの客観が支配しています。
これにはすごく同感します。
真理は「存在」はしない。しかし、真理を共有しようという過程そのものによってしか、真理を解体することはできない。そういうことなのではないかとぼくは思っています。
ここも同意します。
ただ私は、相対主義と唯我独尊がデジタルな関係でなく、その中間にさまざまな位相があって、その色合いを感じることによって真理に近づくことができるように、主観と客観の中間を細かく見ることでしか知り得ない真理があると思います。
「物理的実在」とは誰にでも同じように認識できる事実を指すと思いますが、特定の人にしか共有できないリアリティに対して、未知の「物理的実在」に関連した現象=客観であるか単なる幻想=主観であるかどちらかの二者択一を迫るのは、得ることより失うものの方が大きいように思えます。
特に、人間の「意識」には、主観と客観という枠組みをはずさないと理解できないような秘密が隠れているような気がするのです。
書いている人:
essa